ヴィオレ・ル・デュク(建築家)が設計した建物は?経歴をチェック!

最近話題となっているパリにあるノートルダム大聖堂。
尖塔のデザインを公募することが決まったり、多額の寄付金が集まったり、再建までどれくらいの日程がかかるかなど話題ですね。

 

ノートルダム大聖堂の完璧な3Dがあることがわかりましたが、そのデザインをそのまま使用するか、新しいものとしてデザインするかなども話題となっており、どうなるのか楽しみです。

 

さて、今日までのノートルダム大聖堂のデザインは初期のものと全く異なるデザインって知っていましたか?
現在、ほとんどの人が思い浮かべるノートルダム大聖堂を作った人物がフランスの建築家ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク(Eugène Emmanuel Viollet-le-Duc)と言われています。

今回は ヴィオレ・ル・デュクが設計した建物や経歴についてまとめていきます。

ヴィオレ・ル・デュクが設計した建物は?

 

ヴィオレ・ル・デュクは12世紀から15世紀末にヨーロッパ各地で影響を与えたゴシック建築という建築様式に感銘を受けました。

 

ゴシック建築を本来の良さを活かしつつ、現代的な鉄やコンクリートを活用し中世建築の修復を行った人物です。
このことが、批判の的となったりしましたが、ヴィオレ・ル・デュクが行なっていなかったら、ノートル・ダム大聖堂は違うデザインだったと考えると簡単に批判するのは難しいです。

 

サント=マドレーヌ教会堂(ラ・マドレーヌ)

 

 

ヴィオレ・ル・デュクが最初に修復を行ったのがフランスのヴェズレーにあるバシリカ式教会堂です。
こちらは1979年にユネスコの世界遺産に登録されています。

 

サント=マドレーヌ教会堂は861年にベネディクト会士たちによって建立されました。

落雷があったり、破壊されたりと劣化が酷く、また、構造的な問題もある状態でした。
フランスの作家プロスペル・カリメがサント=マドレーヌ教会堂を発見し、ヴィオレ・ル・デュクに修復を依頼します。

ヴィオレ・ル・デュクは建築を学んでいませんでしたが、修復工事によって建築の構造を学び、ゴッシク建築の合理性の素晴らしさを確信することになります。

 

 

ノートル・ダム大聖堂(パリ)

 


パリの象徴であるノートル・ダム大聖堂。
この大聖堂もヴィオレ・ル・デュクが修復する前には廃墟と化していました。

ノートル・ダム大聖堂の修復は始め、ジャン・バティスト・ファシュスと共同で行われていました。
ラシュスと共同で行われていた1845年〜1857年までは元のデザインを活かした控えめな修復でしたが、ラシュスが亡くなった後、豪華な彫刻を施すデザインに大幅な変更が行われた。

 

特に大きな変更は撤去されていた尖塔を復元するというものでした。
尖塔を従来の高さよりも10m高く変更したり、尖塔基部を囲んで福音史家と十二使徒の彫刻が追加されました。

また、なんとヴィオレ・ル・デュクは聖トマ像を自身の姿に似せるという大胆な行動を起こしました。
そのため、聖トマ像は従来の姿とは全く異なったものとなっています。
聖トマ像は尖塔を見上げるポーズを取っているものです。

他の彫刻のデザインも工事に携わった人であることが、大きな非難を浴びる原因にもなりました。

 

 

ピエールフォン城

 


ヴァロア地方のピエールフォン城は破壊され、廃墟と化していました。

 

廃墟となっていたピエールフォン城を気に入ったナポレオン3世が離宮として使うことを表明し、ヴィオレ・ル・デュクに修復を命じました。

初めは廃墟を眺めるために、一部の修復のみを行う予定でしたが、1862年には外観だけではなく内装にも全て装飾を行うこととなりました。

 

修復工事が一時中断されたこともあり、現在の姿になったのはヴィオレ・ル・デュクが亡くなった後でした。

 

ピエールフォン城は中世の建築として非常に貴重な建物であったため、元の素材やデザインを復元していたら貴重な遺産となったということで、ヴィオレ・ル・デュクの修復は批判を浴びました。

が、内部はとても美しい装飾が施され宮殿としての機能から見ると非常に優れた修復でした。

 

 

サン・ドゥニ・ド・レストレ教会堂

 

こちらは修復ではなく、新しい教会の設計として関わりました。
ネオ・ゴシック様式に分類されるが、部分的にロマネスク様式が見られたり、装飾のモチーフが近代的なものだったりとヴィオレ・ル・デュクが新しい建築様式を試みようと努力した様子がみられます。

 

ヴィオレ・ル・デュクの経歴

 

ヴィオレ・ル・デュクは裕福な家庭に生まれました。
知識人を招いたサロンを開く母や美術評論家でプロスペル・メリメなどと交流のあった伯父と幼い頃から、素晴らしく教養のある家庭で育ちました。

 

絵画の才能があったヴィオレ・ル・デュクでしたが、建築学校は「建築家を鋳型にはめ込むもの」と批判し、通いませんでした。

 

その後、フランスを巡り、中世建築のデッサンを行い、デッサン学校で代理教授となりました。
中世ゴシック建築がフランスらしい素晴らしい建物だと考えるようになります。

 

そして、伯父と交流のあったプロスペル・メリメの推薦により、サント=マドレーヌ教会堂の修復に携わることになります。
この修復工事によって、改めてゴシック建築の合理性に感動し、 ゴシック建築の構造合理主義的解釈を深めていくきっかけとなりました。

 

ゴシック様式の合理性の解釈を広げた結果、19世紀に建築の材料として使われ始めた鉄などを修復に使用するようになりました。
これは、非常に革新的な考えであり、20世紀以降の建築家たちに大きな影響を与えました。

 

その一方で、中世の建築様式から全く違うデザインに変更されたり、新素材を使うことにより、歴史的価値が失われたと激しく批判する人もたくさんいたようです。

 

歴史を大切にするのも重要ですが、ヴィオレ・ル・デュクのように新しいことを行う人も必要なことで、難しい問題だなと感じました。

 

■ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュク
1814年1月27日〜1879年9月17日(65歳)
出身国:フランス
職業:建築家、建築理論家
著書:『中世建築辞典』『建築講話』

 

中世建築辞典は10巻もあり、なんと4,700ページにも及ぶ超大作のようです。

 

 

なんとkindle版で発売されています!

 

 

まとめ

 

建築を学んだことがないのになぜ、修復を任されたのだろう?と疑問に思っていたのですが、伯父の知り合いに頼まれたということを知り、裕福な家庭に生まれるってすごいなと改めて思いました笑

 

今回の出来事で修復がどうなるのか議論されているノートル・ダム大聖堂。
元どおりのを見たいという気もしますが、ヴィオレ・ル・デュクのように新しく近代的なノートル・ダム大聖堂も見てみたいと思いました。

 

したっけ!

 

 

 

 

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